2013年05月19日

見たことのない世界、忘れてた気持ち

■かいじゅうたちのいるところ (2009)
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★★☆☆☆

かいじゅうの着ぐるみがメチャクチャかわいいので、それだけでも見る価値がある。
ただしだいぶ嫌な気持ちになるけどなー。

■見るほどに女性を嫌いになる仕様w

ママは離婚後も頑張って子育てをしているが、いつも渋面で余裕がない。恋人との電話の際は笑顔になるが、電話をしているあいだは、もちろん子どもの相手はできないし、する気もない。

ママが恋人を夕食に招待した日、息子マックスはキレた。
恋人と関わるときは、ママはいつも自分の相手をしてくれないのだから当然だ。マックスは<いたずら好き>だから暴れたわけじゃない。「僕を見て」と訴えていたにすぎない。

ところが、<保護者>であるべきママが守ろうとしたのは、息子の切なる願いではなく、恋人との時間だった。息子を叱責し夕食抜きを宣言した。
それは「お前を見ない、理解するつもりもない」という宣誓であり、「部外者として私たちの営みを見ていなさい」、もしくは「この場から立ち去れ」という通達だ。
マックスが家を飛び出したのはママの指示に従ったに過ぎない。けなげ過ぎ。

そのとき恋人はその場に立ちつくすだけだった。マックスを保護する気持ちをたないという意思表明だ。じじつ、これ以降彼は一切登場しない。

実はマックスには姉がいる。しかし、本来立場を同じくして同士となるべき姉は、友達との関係づくりに夢中でマックスと距離を置く。マックスって絶望的なほどに孤独だわ。
孤独で帰る場所がないことが、このあとかいじゅうの島に行っても、ホームシックにならずに道を切り開いていける根拠となるのだが・・・。それにしてもリアルに居場所がないにも程がある。キツイわー。

映画の最後で、路上で泣きながらマックスを抱き締めるママの乱れた服と髪から、彼女の息子を捜し求める必死さが見て取れる。
でもそれだけ必死なのに、なぜマックスが飛びだした瞬間、ママは彼を追わなかったのやろか。突然の事態に呆気にとられたのかな。いや、違うよね。とっさのときにこそ体ってのは動くはず。

ヒトは学習型の動物である。本能行動を失った分だけ、学んだことはどんどん獲得できるように進化した。
ママが動けなかったのは、冒頭何度も描かれたように「子どものために動かない日常」を学んでいたからだ。
だからママの必死さを見ても、ママはママの想像する「母親」という役割を演じているとしか感じられなかった。

■好きっていうのが愛じゃない

原作である絵本「かいじゅうたちのいるところ」は、1963年にアメリカで出版された。全世界で累計2000万部以上の発行部数を誇る。不朽の名作ってやつだ。
一般的に、「よい絵本を探すなら、少なくとも成人式(出版後20年)を越えたものを選べ」と言われる。
世代や国、さまざまな価値観を越えて今に伝わるものには、いつ誰にとっても大切なものを秘めているという考え方だ。つまり同書はよい絵本の条件を備えている。

僕は映画「かいじゅうたちのいるところ」をよい「絵本」とは思わない。映画だから絵本ではないのだけど、この映画は「かいじゅうたちのいるところ」である必要があったのか、という意味で、そう思う。

絵本の中でも、<いたずら好き>のマックスはやはり夕食抜きを命じられる。ただしここでは、お母さん(区別しやすいよう、映画版と表現を変えました)自身の手によって、マックスは子ども部屋に閉じこめられる。お母さんの目が届く自宅内で、かつマックスにとって最も救いのある自室である。
罰は執行されるが、犯した罪以上の負荷は回避されるようお母さんによって配慮されている。

マックスは夢か現か、自室に木が生え山になり波が打ち寄せて大海原に放り出された。長い航海の末、かいじゅうたちの島にたどり着く。

映画では、かいじゅうたちは人間の言葉を話し、人間と同じような喜怒哀楽をもって<生活>している。見た目が異質なだけで、街中の不良少年や隠遁した気むずかしい老人と同じ<話せばわかる者>なのだ。
絵本では、かいじゅうはあくまで人ならざる<もの>である。かいじゅうたちとマックスの営みは、文字なしの絵のみで描かれる。
かいじゅうたちがマックスに対して言葉を発するのはただ1回、マックスが島から去る間際に、人ならざる価値観を表出するときのみだ。

「おねがい、いかないで。
 おれたちは たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ。
 たべてやるから いかないで」

これは比喩ではなく言葉通りの意味だろう。鬼の愛し方は愛する者を喰むという。それと同じ。怖い。

絵本でのかいじゅうはあくまで理解し合えないもの、得体の知れないものとして描かれている。
得体の知れないものと折り合うこと、一見理解できないものを「とりあえず」でも受け入れるという態度は、対象の存在を全肯定する行為だ。それを僕らはふつう、愛と呼ぶ。

■マックスのママが嫌な女である理由

絵本には最後までお母さんは出てこない。
ただ、マックスが島から自室に戻ってきた(目が覚めた?)ら、そこにはお母さんが用意した夕食が置いてあり、「それはまだほかほかとあたたかかった」とある。
つまり、マックスが部屋に閉じこめられていくらも時間が経っていないという表現であり、子どもの一瞬の永遠を見事に描いているシーンだってこと。
それと、子どもを叱りつつ同時に許してしまっていたというお母さんの甘さを見事に描いている。もっと言えば、あたたかい食事があたたかいうちに彼が戻ってくる(目が覚める)とわかっているという、お母さんの息子に対する理解度に、僕はたまらない感動をおぼえる。

そういえば絵本の冒頭、マックスがいたずらをしている場面で、壁にマックスの描いた絵が掛けてあったな。お母さん、どんだけ息子が好きなんだよ。

絵本のマックスが、<かいじゅう>のように激しいいたずらをできるのは、お母さんが必ず自分を受け止めてくれることを知っているからだ。いい子悪い子に関係なく、その存在を常に肯定すると。

絵本「かいじゅうたいのいるところ」は愛を謳う絵本である。

・・・あ! そうか!!
映画「かいじゅうたちのいるところ」とは、絵本「かいじゅうたちのいるところ」を読むべき親子はどんな親子かということ提示した作品だったのか・・・!
子どもを愛せない親たちに対し、愛への道を照らすためこの映画は作られた。
「本作に共感する大人よ、この絵本を手に取りなさい。君たちにこそ、この絵本を読んで欲しい」
映画に興味をもてば、おそらく原作にも手が伸びるはず、という計算。
そうでなければ絵本と内容がまったく異なるこの映画に、その名を冠して興味を引く理由がない。


映画の最後、ママは島から戻ったマックスを抱きしめた。「どこに行ってたの!?」と叱責はしなかった。ただ抱きしめた。受け入れた。いい子悪い子に関係なく。
2人のこれからを僕は祝福する。

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posted by ごん at 22:01| Comment(1) | TrackBack(0) | ┣ 映画 (DVDなど) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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asssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssssdさだsっだs
Posted by asassssssssa at 2014年10月26日 06:36
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